DAIHATSU
MotorSports and X4 HISTORY

1960年代の乗用車進出当時から、モータースポーツに情熱を傾け続けたダイハツ。
現代においてその集大成として君臨している「X4」シリーズと、そこに至るまでの道のりを辿ってみよう。

−転生編1−
〜20世紀最後のリトルダイナマイト〜
 スズキHB21アルトワークス&スズキスポーツの高い壁に苦慮するダイハツモータースポーツ陣。
新型エンジンを搭載したL512SミラX4での敗北という現実は彼らに重くのしかかった。
「このマシンでは奴らに勝てない・・・」
その頃、ダイハツ工業では新たなコンパクトカーが産声を上げようとしていた。
仮称NCX。
市販名称「ストーリア」。
初代シャレードに回帰した1000cc3気筒エンジンを搭載し、98年10月に新規格に移行する軽自動車のシャシーを拡大・先行採用したニューモデルである。
軽自動車よりトレッドが拡大され、バランスの取れたシャシー。
当時の過給機係数1.4を掛けても、ダートトライアルATクラス・ラリーAクラスの排気量制限である1000cc一杯まで活用できる713ccエンジン「JC−DET」。
これで天敵アルトワークスとスズキスポーツを打ち破る。
「これなら、奴らに勝てる!」
20世紀最後のリトルダイナマイト。
ダイハツの最終兵器はこうして誕生した。
ダイハツM112S「ストーリアX4」である。
L512S用のJB−JLを713ccにストロークアップしたJC−DETエンジンは次期軽自動車用JB−DETエンジンのテストベッドを兼ねるという名目で開発されたため、先行開発エンジンとして技術や素材が惜しみなく投入され、それを制御するコンピューターもまた高度なものが搭載された。
排気量に比べると大型のRHF−4Bタービンはピークパワーを保障すると共に、当時の市販車としては異例なほど低速トルクを全く無視していたが、ツボにハマった時のパワーはL512Sより増えた車重を物ともしなかったのである。
当時の運輸省(現・国土交通省)はこのような過激なマシンの市販をよしとはしなかったが、「競技用の限定販売だから」という事で押し切られた。
瞬間的なパワーアップに役立つインタークーラー・ウォータースプレーは生産現場で理解されなかったが、「インタークーラーを洗浄するため」とこれまた押し切った。
まさに勝つためには手段を選ばない勢いで、ダイハツモータースポーツ陣は暴走したのである。
そしてその日がやってきた。

−転生編2−
〜デビューウィン〜
98年2月の発表直後の4月19日。三井三池モータースポーツランド。
全日本ダートトライアル選手権・第1戦ATクラスに初登場したストーリアX4。
観衆がNEWマシンを固唾を飲んで見守る中発進したマシンは志賀彰のドライブでベストタイムを記録。
デビューウィンを見事成し遂げ、話題をさらった!
新時代の到来である。
その後第2戦も志賀彰のドライブで優勝を飾ったストーリアX4は結局98年に9戦中3勝を挙げ、熟成が進んだアルトワークスには及ばなかったものの、確実にダイハツの存在感を見せ付けたのである。

一方全日本ラリー4WD部門には第3戦より参戦。
デビューウィンこそ逃したものの初戦2位と順調な滑り出しを見せ、こちらも9戦中3勝を挙げた。
初期生産台数が少なかったため競技会への参加台数も少なかったが、ラリーでは回を追うごとに台数を増やしていったのである。

なお、この間もダートラC車両ではL512SミラX4が2勝、全日本ラリー2WD部門ではL502SミラX2が2勝を挙げている。

ここでちょっとした問題が生じた。
「競技用の受注限定生産」
と当初アナウンスしていたストーリアX4だが、当時このテのモンスターマシンがすっかり死滅していた事もあって、ストリートユースまで含めて注文が殺到したのである。
競技専用モデルだったはずのストーリアX4は、翌99年からカタログモデルとしても量産体制が敷かれる事となり、モータースポーツファンを喜ばせた。

−転生編3−
〜それでも高いスズキスポーツの壁と、現れた救世主〜
華やかなデビューウィンを遂げたストーリアX4だが、熟成の進んだHB21アルトワークスとスズキスポーツの底力に思わぬ苦戦を強いられる。
99年シーズン、全日本ラリー4WD部門では4勝を挙げたものの、全日本ダートラでは僅か1勝(CTミラX4も僅か1勝)に留まり、ダイハツファンには随分悔しい思いをさせる事となる。
おまけに全日本ラリー2WD部門からは撤退してしまったため、ダイハツ車が勝利するニュースがなかなか聞けない時期が続いた。

この状況は、99年までスズキスポーツの名ダートラドライバーとして名を馳せた、原宴司がストーリアX4に乗り換えた事で打破される。
2000年、プロジェクト・ガレージの原とDCCSの志賀によってこの年全日本ダートトライアルATクラスではストーリアX4が5勝と、初めてアルトワークスを勝ち星で上回った。

その勢いでまだL512SミラX4が頑張っていたCTクラスも平塚忠博が4勝を挙げ、ダートトライアルにおいてダイハツはようやく息を吹き返したのである。
全日本ラリー4WD部門の方はそれどころでなく、スズキスポーツの撤退によってDCCSとブーボーの独壇場となったAクラスで、ストーリアX4は11戦全勝を挙げた。

2000年、20世紀最後の年になって、20世紀最後のリトルダイナマイトはまさにその真価を発揮したのだ。

−転生編4−
〜怒涛の快進撃〜
スズキHB21Sの後継車HA22Sアルトワークスには戦闘力は無く、スズキスポーツは撤退。
プライベーターのアルトワークスはもはやストーリアX4の敵では無く、2001年シーズンは全日本ダートラATクラスで8戦全勝、全日本ラリー4WD部門Aクラスでも8戦全勝とWタイトルを獲得。

2002年全日本ダートラ・A1クラス8戦全勝。
2002年全日本ラリー4WD部門Aクラス・8戦全勝。

2003年全日本ダートラN1クラス・8戦全勝。
2003年全日本ラリー4WD部門Aクラス・8戦全勝

2004年全日本ダートラN1クラス・8戦全勝。
2004年全日本ラリー4WD部門Aクラス・6戦全勝

2005年全日本ダートラN2クラス・8戦全勝。
2005年全日本ラリー4WD部門Aクラス・5戦全勝

ストーリアX4の生産自体は2004年で終了したが、後継車が登場しなかった事もあり、僅かなプライベーターのHB21Sアルトワークスを除けば、コンパクトカークラスはストーリアX4の独壇場となったのである。

−転生編5−
〜もう一つの快進撃と、新たな挑戦〜
ストーリアX4の快進撃だけでなく、全日本ダートトラアルの改造車クラスでも2000年以降快進撃が始まった。
前年までのエンジントラブルを克服した平塚忠博の駆るL710S改造車ダイハツCTミラが2001年に8戦6勝の快進撃!

ストーリアX4のJC−DETを822ccにボアアップしたエンジンはこの後ダイハツ系改造車の定番となり、オプティやストーリアの改造車にも搭載されて活躍する。
実際、2002年に平塚忠博や志賀彰のCTミラ/ミラジーノが4勝する傍ら、岩田真理のCTオプティが1勝を挙げた。

2003年は規定変更による苦戦の年で1勝もできなかったダイハツ車勢だが、2004年には新たに1300ccターボのK3−VETを搭載した改造車も加わって息を吹き返した。
小清水昭一郎のミラジーノ、志賀彰や平塚忠博のストーリア1300改がSUクラスで合わせて8戦全勝、2005年にはSUクラスのエースに小清水昭一郎のミラジーノを据えて6勝、さらにオクヤマの鈴木功敏がストーリアで1勝を挙げて計7勝と快進撃を続けたのである。

その一方で2005年にはランサーやインプレッサが走るSCVクラスにも1500ccターボを搭載したストーリア1300改で平塚忠博・志賀彰がチャレンジし、第4戦では平塚忠博が何と2位につけてみせ、ダイハツが決して小排気量だけでは無いところを見せ付けた。

−転生編6−
〜ターマックのダイハツ車〜
1995年から始まったダイハツチャレンジカップも年を追う毎に参加台数を増やしてヒートアップし、ダイハツ車で本気でモータースポーツをやってみようというドライバーも増えてきた。

そしてストーリア、軽スポーツカーのコペンの登場と共に、ダイハツ車をターマックのスプリントイベント、すなわちジムカーナで走らせようという動きも出てきた。
これは事実上のダイハツワークスであるDRSやセミワークスは絡まなかったが、当時ダイハツ車のパーツ販売を手がけ始めたD−SPORTや、一部プライベーターの手によって全日本ジムカーナにも数台が参戦したのである

口火を切ったのは2001年全日本ジムカーナ第8戦での鎌田 敬司で、ストーリア1300を投入。
続く2002年には鎌田敬司の他に兵藤忠彦・小林英樹がストーリアX4でスポット参戦した。
決して主力とはなりえないものの、ジムカーナでもダイハツ車が走る場面がある事を実感させたが、兵藤忠彦のようにダイハツチャレンジカップで楽しんでいたドライバーが全日本ジムカーナにまで出てきた(結果は惨敗だったが)というのが面白い。

面白くなったのは2003年の規則改正後で、鎌田敬司が660ccNAのミラジーノで、兵藤忠彦に至っては何と15年落ちで550ccターボのリーザTR−ZZを引っ張り出してきて全日本ジムカーナNTクラスにスポット参戦、共に1,2度入賞した程度だったが、ダイハツ車の存在感を見せつけた。

鎌田敬司はマシントラブルのため途中からコペンにスイッチしてSTクラスに参戦したが、2004年になるとこれに同じくコペンの小舘久がスポット参戦に加わり、NTクラスにも直噴ミラことL250SミラVで抱博高が参戦。

2005年には鎌田敬司が再びストーリア1000にスイッチしてミラVの抱博高と共にNTクラスにスポット参戦、クラス主力のトヨタ・ヴィッツには及ばなかったものの善戦。
特に抱博高のミラVは全日本では及ばなかったものの、ジムカーナ西日本フェスティバルNTクラスでは優勝という活躍を見せた。

もう一つ、ターマックイベントが多い全日本ラリー2WDクラスでもダイハツ車の参戦が相次いだ。
2001年第2戦の国政 久郎・草加 浩平組によるYRVターボでのスポット参戦に続き、2002年にはブーボーとD−SPORTがM101Sストーリア1300を参戦させる。

2003年にもブーボーは林孝一・越川 幹弘組のストーリアをスポット参戦させているが、面白い事にダイハツチャレンジカップにも参戦している吉木信幸・黒木浩組がDRSカラーのシャレード1500で数度参戦している。
2004年になると、WRCの練習という意味合いもあってか、名のあるドライバーがストーリア1300でスポット参戦する例もあり、第6戦の北海道でブーボーの島田雅道・村田康介組が優勝しているが、これは1998年のミラX2以来だ。
2005年にもブーボーはM101Sを走らせており、村田康介・地神潤組が1度優勝している他、最終戦にはWRCでも走ったDRSのブーン1300が登場している。


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