DAIHATSU
MotorSports and X4 HISTORY

1960年代の乗用車進出当時から、モータースポーツに情熱を傾け続けたダイハツ。
現代においてその集大成として君臨している「X4」シリーズと、そこに至るまでの道のりを辿ってみよう。

−苦闘編1−
〜DOHC超高回転の「X4」〜
 1995年、ダイハツX4マシンは新型の
L512S
「ミラ・アバンツァートTR−XX X4」
にバトンタッチする。
エンジンを旧型のEF−JL3気筒SOHCターボから、JB−JL4気筒DOHCターボに変更、さらに同じエンジンを搭載した「TR−XX R4」とはECUセッティングを換えてエンジンフィーリングを向上させ、さらには定番のクロスミッションも備えた、ダイハツ軽競技車渾身の1作である。
同時期にモデルチェンジし、同じく新型のK6Aを搭載したHB21Sアルトワークスとは、
「3気筒のパンチ力か、4気筒高回転か!」
で名勝負を期待され、ダートトライアル・ラリー共にダイハツvsスズキの一騎打ちという展開になった。

−苦闘編2−
〜高いスズキスポーツの壁〜
満を持して投入されたL512SミラX4だったが、不幸な事にスズキスポーツがその頃全盛期を迎えようとしていた。
95年の成績はダートトライアル未勝利・ラリーの4WD部門でも未勝利に終わってしまい、スズキの天下を許した。
L512Sでは、HB21Sに勝てる戦闘力が無かったのである。
衝撃を受けたダイハツのモータースポーツ部門では早速ある計画が持ち上がる事になるが、それが具現化するのはもう少し先の話である。

ところでラリーの2WD部門では95年、意外なマシンが活躍していた。
L200SミラTR−XXアバンツァートR。
そう、既にモデルチェンジしていた旧型マシンである。
むろん新型のL500系列にもFFのターボ車(もちろんJB−JL搭載)が存在していたが、恐らく軽量さを買われたゆえか投入され、何と1勝を上げている。
−苦闘編3−
〜異端児X2の登場〜
続く96年もダートトライアルでは苦戦を重ね、ようやくオールスター戦で改造車のCTクラスにブーボーの伊藤益弘が1勝をもたらし、ラリーも開幕戦で平塚忠博・秋田 憲吾組が1勝を上げたに留まった。

ただ、この96年は1台の異端児がダイハツモータースポーツ界に登場している。
「L502Sミラ・アバンツァート
TR−XX・X2」
基本的にはX4のFF版なのだが、これが不振のL512Sに代わり、ラリーの2WD部門やダイハツチャレンジカップなどターマックイベントで大暴れする事になり、96年のラリー2WD部門では後の名ドライバー・若槻 幸治郎の手によって早速1勝を挙げた。
97年、L512Sが主力だった短い期間の中で、全日本ダートトライアルA車両のものとして唯一の勝利を志賀彰が挙げた。
この年は他に全日本ダートラのC車両で平塚忠博が1勝、全日本ラリー4WD部門では平塚忠博と、ブーボーの島田雅道がそれぞれ1勝を上げるに留まる。
一方L502SミラX2が参戦した全日本ラリー2WD部門は好調で、若槻幸治郎・宮城孝仁組が3勝を上げてシリーズを制した。

−苦闘編4−
〜モータースポーツの原点に帰って〜
1995年、関東シリーズから口火を切った全く新しいイベントがDCCSによって開催された。
「ダイハツ・チャレンジカップ」
当初モータースポーツの入門イベントとして始まったこのイベントは極初期にダートトライアルが開催された以外はジムカーナ1本に絞られて現在まで開催され続けているが、その初戦が浅間台スポーツランドで始まった時、ダイハツの新たなモータースポーツ史が始まったとも言える。
ダイハツ車であれば全て参加可能、運転免許さえあれば誰でも5000円で参加可能−そんな手軽なコンセプトが次第に浸透すると同時に、インターネットの普及によるオーナーズクラブの集まりとしても利用されるようになり参加台数は急増。
95年には関東戦・関西戦、96年には東北戦、97年には北海道戦、98年には九州戦、そしてついには99年より沖縄戦まで始まり、メーカー系モータースポーツイベントとしては唯一全国展開を成し遂げた。


その初期の参加台数をまだまだ現役のL70・L200系ミラと共に支え、かつ常に上位をさらい、そして現在も活躍を続けているのがこの章で紹介したL502S/L512SミラX2/X4である。


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