DAIHATSU
MotorSports and X4 HISTORY

1960年代の乗用車進出当時から、モータースポーツに情熱を傾け続けたダイハツ。
現代においてその集大成として君臨している「X4」シリーズと、そこに至るまでの道のりを辿ってみよう。

−創世記1−
〜F40K「コンパーノ・スパイダー」からダイハツP−5まで〜


1958年ダイハツ初の小型4輪貨物車
「ベスタ」
発売。

1963年4月ダイハツ初の乗用貨物車
「コンパーノ・バン」
発売。
(写真は6月に追加されたコンパーノ・ワゴン)

1963年4月「第1回日本グランプリ」開催

1964年2月ダイハツ初の乗用車
「コンパーノ・ベルリーナ800」
発売。

1965年5月「第2回日本グランプリ」開催
1965年4月ダイハツ初のスポーツカー
「コンパーノ・スパイダー」
発売。

そして1965年7月18日。
船橋サーキット。

「シリーズ1全日本自動車クラブ選手権レース大会」GT−Tクラス。
トヨタ・スポーツ800を駆る浮谷東次郎が脅威の大逆転により優勝した事により、今でも伝説となっているこのレースで、1台のスポーツカーとそのメーカーがモータースポーツにデビューした。
ダイハツF40Kコンパーノ・スパイダー(左写真)。
脅威の大逆転劇の影にはなったが、その後も長らくダイハツのレース活動でステアリングを握る吉田隆朗の手により、トヨタスポーツ800・ホンダS600・日産ブルーバードSSに次ぐ6位入賞の走りを見せた。
(写真はマカオグランプリでのコンパーノ・スパイダー)

ここからダイハツのモータースポーツ史が始まる。
 続く1965年8月のCDCJ鈴鹿レース大会・GT−TクラスでホンダS600や三菱コルト1000を抑えて初優勝を遂げたコンパーノ・スパイダーはこの年7戦2勝。
11月の鈴鹿300kmでは三村明己がT−Tクラスにコンパーノ・ベルリーナ(右写真)を出場させている(結果はT−T/T−U総合16位)

コンパーノ・スパイダーによるレース活動は短期間で終わり、コンパーノ・ベルリーナによる参戦がメインとなっていく。
その中で1966年、プロトタイプレーシングカー、
ダイハツPー3
がデビューする。
(ダイハツP−3)

コンパーノのエンジンにDOHCヘッドを載せ、レーシングカーのボディを載せたP−3は1966年5月の第3回日本グランプリに初登場。
吉田隆朗のドライブにより小兵ながらプリンスR380やトヨタ2000GT、ジャガーXKを追いかけて大奮闘し総合7位。
アバルト1300を抑えて堂々のクラス優勝を果たす。
続く7月の第1回富士ツーリスト・トロフィー自動車レース大会でもクラス優勝し、1966年のダイハツのレース成績は
コンパーノ・ベルリーナ 8戦(最高位  3位)
コンパーノ・スパイダー 1戦(最高位 15位)
P−3         3戦3勝(クラス優勝)
1967年からはダイハツ・ワークスとしての活動は完全にプロトタイプレーシングに移されるが、5月の日本グランプリで初登場した新型のP−5は残念ながら予選落ち。
熟成されたP−3で耐久レースへの参戦にとどまった。
そして同年11月、トヨタ自動車とダイハツ工業へ提携が発表され、ダイハツ独自の乗用車によるレース活動は事実上終止符を打たれる。
1968年、熟成された
ダイハツP−5
がようやく5月の日本グランプリに登場。
(ダイハツP−5)

P−3とエンジンは同様だが、コンパーノのパワートレインを流用したFRレイアウトのP−3に対し、Pー5は鋼管スペースフレームのドライバー後方にDOHCエンジンを縦置きしたMRレイアウトの本格的なレーシングカー。
日本グランプリで日産R381やトヨタ7を追いかけクラス優勝すると、耐久レースを中心にワークス体制でレースを続けた。
1969年、ダイハツワークスによるプロトタイプ・レーシングカーによるレース活動は最後の年を迎えた。
いよいよ熟成されたP−5によるレース参戦は勢いを増し、この年も耐久レースを含めて4戦に出場。
その後P−5はプライベーターに放出されたと言われるが、その行方は定かでは無い。
1台はダイハツ工業本社で保存されているようである。

−創世記2−
〜ミニカーの時代〜
1970年から、ダイハツ車のモータースポーツ活動は軸足を移す。
1970年にデビューし、360ccエンジンとして最強の40馬力を発揮した軽自動車の
「フェローMAX」。
トヨタからボディのOEM供給を受けながらも独自の1000ccエンジンを搭載した小型乗用車
「コンソルテ」。
一世代前のカローラ系シャシーを使用して独自ボディを載せた小さなフラッグシップカー
「シャルマン」。
コンソルテやシャルマンは一部プライベーターが時折エントリーさせるだけでレースにはほとんど縁が無かったが、まだ全日本ラリーとなる前の時代のラリーでは速さを見せる。
その一方で、ラリーだけでなくレースでも大活躍したのがフェローだ。

L38SフェローMAXは、1970年の第1回オールミニ200KMゴールデンレースを皮切りに、1976年に軽自動車規格が550ccに改定されてからも、1978年まであらゆるレースのミニカー部門で走り続けた。
その間145戦で22勝。
決して高い勝率では無かったが、ホンダ・スズキ等と共に、サーキットを熱く走り抜けた。
中でも1971年にはJAF公認イベントとしては唯一、ダイハツワークスクラブと言えるDCCS主催のレースが筑波サーキットで開催されており、ダイハツのミニカーレースへの力の入れ具合も半端では無かったのだ。


胎動編へ続く

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