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その中で1966年、プロトタイプレーシングカー、
「ダイハツPー3」
がデビューする。 |
(ダイハツP−3) |
コンパーノのエンジンにDOHCヘッドを載せ、レーシングカーのボディを載せたP−3は1966年5月の第3回日本グランプリに初登場。
吉田隆朗のドライブにより小兵ながらプリンスR380やトヨタ2000GT、ジャガーXKを追いかけて大奮闘し総合7位。
アバルト1300を抑えて堂々のクラス優勝を果たす。
続く7月の第1回富士ツーリスト・トロフィー自動車レース大会でもクラス優勝し、1966年のダイハツのレース成績は
コンパーノ・ベルリーナ 8戦(最高位 3位)
コンパーノ・スパイダー 1戦(最高位 15位)
P−3 3戦3勝(クラス優勝)
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1967年からはダイハツ・ワークスとしての活動は完全にプロトタイプレーシングに移されるが、5月の日本グランプリで初登場した新型のP−5は残念ながら予選落ち。
熟成されたP−3で耐久レースへの参戦にとどまった。
そして同年11月、トヨタ自動車とダイハツ工業へ提携が発表され、ダイハツ独自の乗用車によるレース活動は事実上終止符を打たれる。
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1968年、熟成された
「ダイハツP−5」
がようやく5月の日本グランプリに登場。 |
(ダイハツP−5) |
P−3とエンジンは同様だが、コンパーノのパワートレインを流用したFRレイアウトのP−3に対し、Pー5は鋼管スペースフレームのドライバー後方にDOHCエンジンを縦置きしたMRレイアウトの本格的なレーシングカー。
日本グランプリで日産R381やトヨタ7を追いかけクラス優勝すると、耐久レースを中心にワークス体制でレースを続けた。
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1969年、ダイハツワークスによるプロトタイプ・レーシングカーによるレース活動は最後の年を迎えた。
いよいよ熟成されたP−5によるレース参戦は勢いを増し、この年も耐久レースを含めて4戦に出場。
その後P−5はプライベーターに放出されたと言われるが、その行方は定かでは無い。
1台はダイハツ工業本社で保存されているようである。 |